「だったりします」って言うな

最近、「だったりします」という言い方をよく目にするようになりました。

例えば、こんな感じ。

古市さんの発言が話題になっていますね。ニッポンのジレンマでご一緒してから隠れたファンだったりします
((cache) 古市発言への批判に見る、「積極的に嘘を付け」と語る「道徳的」な人たちより引用)

これ、僕に限らず言えることだったりしますよね。ネットでは荒くれ者のイメージがある中川淳一郎さんとか、やまもといちろうさんなんかも、会ってみると普通の紳士だったりします
((cache) 「癒し」としての情報発信—ネットでは苛烈なあの人が、会うと大人しい理由より引用)

ちなみに本書店史上、もっとも売れた紙の本だったりします
((cache) 成功者に共通するシンプルな法則より引用)

※記事の選択に特段の意図はありません。最近目にして気になったものを集めてみたらこうなりました。

「だったりします」を分解すると、「だ」「ったり」「します」に分けることができます。ここでは明らかに「たり」の使い方がポイントです。もうちょっと「たり」の定義を正確に把握しておきましょう。

〔完了の助動詞「たり」の終止形「たり」から。中世末期以降の語〕活用語の連用形に接続する。ガ・ナ・バ・マ行五(四)段活用の動詞に付く場合には「だり」となる。
(1)並行する、あるいは継起する同類の動作や状態を並べあげるのに用いる。普通、「…たり…たり」のように、「たり」を二つ重ねて用いる(時に、末尾の「たり」のあとに「など」を添えていうこともある)。
「人が出―入っ―している」「本を読ん―((だり))手紙を書い―するひまもない」「大きかっ―小さかっ―などして、なかなかからだに合うのがない」
(2)(副助詞的用法)一つの動作や状態を例としてあげ、他に同類の事柄がなおあることを暗示する。
「あの子は、親にたてつい―して、ほんとうに困ったものだ」「わたしが人をだまし―などするものですか」
(たりとは – Weblio辞書より引用)

要するに、「たり」は並行や例示の助詞ということです。なので、下記のような言い回しであれば、正しい日本語です。

「~だったり~だったりします。」
「例えば、~だったりします。」

上に挙げた例文「ニッポンのジレンマでご一緒してから隠れたファンだったりします。」を見てみますと、いずれでもないことは日本語のネイティブスピーカーなら容易にわかるでしょう。

日本語では文脈から容易に推察できる言葉を省略することがありますが、「隠れたファン」と並列にある言葉をこの文脈から理解することは私にはできません。

また、「例えば」が省略されている可能性もなくはないわけですが、「ニッポンのジレンマでご一緒してから例えば隠れたファンだったりします。」となると、何の例えなのかさっぱり理解できません。

これらの用法が日本語として正しくないことは確認できました。では、どうしてこんな言い方がまかり通っているのでしょうか。調べてみるとこんな説がありました。

断定的な同意をするよりも、遠慮気味にいう感じのほうが、自己主張をしすぎずに出来る為、好んで使われているようです。
ちょっと引き気味にすることによって、同意をする上でよい感じがするのではないでしょうか?
賛成意見に手を挙げるとき、さっと真っ先に手を上げる人より周りを気にしながら半分ぐらいの挙げ方をするのと同じなのではないでしょうか?
自分の意見を結うのではなく、追従して周りの意見に合わせる、その際にもはっきりとは追従しない。
現代日本の社会全体を見ているようではないですか?旗幟鮮明にせず玉虫色の選択は意見の追従にも言えることはないでしょうか?
(「~だったりします」という言い方 | その他(ライフ)のQ&A【OKWave】より引用)

自己主張の権化のような尊師が玉虫色の表現を好んで使用しているというのはなかなか興味深い事象だなぁと他人事ながら思ったのでした。

インターネットのように万人からアクセスされ得る環境で文章を公開する以上は、正しい日本語を使えるように気を付けたいものです。

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