カテゴリー別アーカイブ: 未分類

父が死にました

父が死にました。享年74でした。

father

その日の夕方、いつも通り夕食前の風呂に入っていたときのことです。台所で夕食の支度をしていた母の耳に父の呻くような声が聞こえました。母が様子を見に行くと父が風呂桶の中でぐったりしていました。母は救急通報し、指示に従って風呂桶から父を引き出そうとしましたが重くて持ち上がりません。向かいのお宅へ助けを求めて走りました。そうこうするうちに救急隊が到着し、救命措置を施しながら救急病院へ搬送されました。搬送中に一旦息を吹き返すも再度心肺停止。病院で人工呼吸器を設置され精密検査にかけられました。

私は救急病院に到着した頃に母から連絡を受け、着の身着のままで救急病院へ向かいました。受付で父の家族であることを伝えるとすぐに男性の看護師が迎えに来ました。看護師は大変厳しい状況であると話しながら治療台へ通してくれました。母は治療台の脇に立って父を呆然と見下ろしていました。母は特に動じることもなく冷静に対処しているように見えました。

私が到着したことで当面駆けつける人間はいなくなったので母と共に当直医師から説明を受けました。いろいろと丁寧に説明してくれましたが、要約すると「何らかの原因で心肺停止に陥り脳に血液が通わない状況が数分続いた結果、脳に致命的な損傷を負った」「心肺停止に至った原因は確証のある事象は見当たらない」「治療方法はなく経過を見守るしかない」「連絡すべき人には速やかに連絡するように」といったところでした。

その後は遠方の兄とメールで状況報告を交わしながら、母ととりとめもないことを話ながら死に往く父をただ見つめていました。素人目にも死が少しずつ父の体を蝕んでいくのがはっきりとわかりました。顔が黒ずんできて手や顔の体温が冷めていくのを二人で確かめ合いました。ただその時を待つしかありませんでした。

そうして父は、死にました。

午前3時40分でした。診断書に書かれた死因は低酸素脳症でした。

良い死に方だったと思います。大病で苦しむこともなく、認知症で他人に迷惑をかけることもなく、意識は無いながらも妻と息子に見守られながら死んでいきました。上出来です。

率直に言って、私は父のことをあまり好きではありませんでした。典型的なB型で、常に自己中心的な言動で周りを振り回しました。子供のように天の邪鬼で、人の意見には取り敢えず反対しないと気が済まない人でした。妙に負けず嫌いでこれと決めると周りが呆れるまでのめり込みました。

こうやって父のことを思い返していて気づいたことは、これは全部自分のことじゃないか、ということでした。私がいくら疎い憎んでも父のDNAは私の肉体と精神にはしっかりと組み込まれていたのです。

私は、父の息子でした。

ありがとう、さようなら。

ゆく年、くる年(2013→2014)

2013年も何もしないままに過ぎ去り、気がついたら2014年を迎えていました。

毎年毎年、年末に痛感するのは、なんと一年が過ぎるのが早いことか、ということなのだけれど、自分の場合は特に35歳を超えたあたりから年の節目を意識することもあまりなくなってきて、あれが今年のことだったのか、去年のことだったのか、はたまた現実にあったことなのか、想像上の出来事に過ぎないのか、それともテレビや本などで見聞きしただけのことなのか、判然としないことも多くなってきました。

一年前と比較して自分の周囲を見つめてみると、驚くほど変化がないことに気づきます。日頃飲みに行く友人もまったく面子が変わることなく、部屋の中を見回しても何か新しいものが増えたわけでもなく、まぁもちろん本棚の中身やクローゼットの中身がいくつか捨てられて同じ数だけ仕舞われるようになったことなどマイナーな変化はあるわけだけれど、そんなことは伸びた髪や爪を切ったり汗をかいたら風呂で垢を落としたり便所で大小の排泄物を落としたりと、本質的にはそれほど変わらないことです。

ここ数年を振り返って特に驚くのは、メンタリティに何も変化が起きていないように感じることです。もう少し若い頃、20代とか30代の前半くらいまでは、日々の生活の中で本を読んだり時事に触れたり人と話したりする中で自分の中に良くも悪くもなにがしかの変化が生まれていたように思います。でもここ数年は自分の身に何が起きても何も自分の中に残っていないような感覚があります。

もちろん生活が変わらないので外部からの大きな刺激自体が存在しないことはあると思いますが、でもそれって少なくとも30代前半くらいからそんなに変わっていないわけで、やはり自分の内部に何らかの変化が起きているのだろうという感じがします。言うならば、変化しにくいように変化している、みたいな。それだけ自分の価値観がぶれなくなっているということかもしれないけれど、それは反面ねじ曲がった思考を正す機会を失いつつあるということで総体的には悲しむべきことのように思います。

自分の中ではここ2年くらいが「平凡な人生」を歩むためのタイムリミットみたいに位置づけてきた面もあり、それが結局なんともならなかったということに、今になって非常な無力感に苛まれます。「平凡な人生」と言ってるのはいわゆる昭和的価値観とも言うような、奥さんと子供がいてマイホームにマイカーがあってっていうそんな生活でありまして、現代ではそれを手にするのが非凡なことになりつつあるのは重々承知しているのですが、特に大きな挫折もなく仕事に関して言えば中の上くらいには成功している自負はあるから尚更になんでこうなってしまったのか不思議でならず、もしかしたら心の底ではそんな「平凡な人生」を自ら忌避していたのかも知れないという疑念もありますけれど、自分のことながら自分が何を思って何に向かって人生を歩んできたのかよくわかっていません。

何はともあれ自分がどこで立ち止まっていようとも、時は流れ歳は積み重なっていきます。きっとなるようにしかならないし、ならぬことはならぬのです。大過なく過ごせたことが一番の幸せと思って、また一年生きていこうと思います。

最後になりましたが、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


ゆく年、くる年(2012→2013)

37歳になりました

P8080179

前略

本日は私の37回目の誕生日でした。まさか自分が37歳になるとは子供の頃には想像もできなかったし、それ以上に37歳の誕生日を一人の部屋で迎えることになるとは、5年前でもまだ予想だにしていなかった事態のような気がします。

率直に言って今の自分には生きている意味が何もありません。ありがたいことに2人の祖母と両親が今だ健在ですから、彼ら彼女らよりも早く逝くわけにはいかないという倫理観だけが私を現世に縛り付けていると言っても過言ではありません。死ぬわけにはいかないから食べないわけにいかず、食べるためにはマネーを稼ぐ必要があり、そのために働いていると言ってもいいでしょう。

仕事があるというのは素晴らしいことです。もし何もしなくても食べていける貯蓄があるとしても、働かないことでできる膨大な時間を自分にはどうやり過ごせばいいのか想像もつきません。私にとって仕事は生活の糧でもあり、壮大な暇潰しでもあります。

今日は朝起きて、いつもどおりに一杯のご飯と納豆とハムエッグとプチトマトとレトルト味噌汁の朝食を食べ、いつもどおりの電車で職場に出勤し、いつもどおりにダラダラと目の前のタスクを淡々とこなし、いつもと大きく変わらない時間に退勤し、一旦家に帰ってから近所のスーパーに夕食を買いに出掛け、ふと思い立ってケーキコーナーを見たらお誂え向きにイチゴのショートケーキが3割引きになっていたから、ついでにチョコのプレートとロウソクも付けて買っちゃって、一人でケーキをデコレーションしてロウソクに火を付けて写真撮影してすぐ吹き消して、で、今は一緒に買ってきた半額の寿司を頬張りながらキーボードを力の限り打ちこんでいる次第です。

いつもと変わったことと言えば、朝母親からメールが来たことと、Facebookで3人の友達からメッセージをもらったことです。200人くらい友達いるんですけどね。3人だけでしたね。別にいいけどね。

37歳ってのは不思議なもので、急に40歳が一足飛びにやって来た感覚があります。思い返すと、28歳になったときには30歳がもう目の前だなと思ったし、19歳になったときにも20歳はもう目の前か嫌だなと感じました。きっと20代は10代よりも2倍時間が進むのが早くて、30代は10代の3倍時間が進むのが早いってことなのでしょう。

これは自分の中では新たな発見だと思うし、実際にその年齢にならなければ理解できない感覚なのだろうと思うのだけれど、改めて考えると、そんなこと知っても知らなくても人生が大きく変わるわけでもないし、こんなことを聞いて面白がる若者がいるわけでもないだろうし、もうちょっと世の中の役に立つような人間になれたらよかったのにって後悔だけが募ります。

これから新たな一年の間に何があるかわからないし、そもそも自分が一年後に生きているかもわからないですけれど、できれば一度でいいから、誕生日に一年間を振り返った時に、良い一年だったなぁ、もうこのまま死んでもいいなぁ、と思えるような一年を過ごしてみたいです。

そんなわけで一年間ありがとうございました。
また一年間よろしくお願い致します。

かしこ


36歳になりました

ゆく年、くる年

2012年はあっと言う間に過ぎ去り、2013年がやって来ました。

2012年も世間ではいろいろなことがあったような気がしますが、ふと足元を見てみれば、あいかわらず独身の一人暮らしだし、給料も大して変わらないし、部屋の中にあるものも増えもせず減りもせず、証券会社の資産残高は多少増えたもののせいぜい半年無職になれば吹いて飛ぶような些細なものだし、SNSとかで友だちは増えたように見えるけれどいざというときにどれだけの人間が助けになってくれるかと思えばまぁ片手に収まる程度であろうなぁとも思うし、結局のところ2011年が行って2012年がやって来た頃と何も変わっていないのであるなぁと感慨深く感じ入ります。

2013年こそは何か新しいことにチャレンジしたいと考えていて粛々と準備は進めているところではありますが、果たしてその選択が正しいのかどうか根底のところで迷いは立ち切れず、まぁ迷うくらいであれば進んだ方がいいだろうと思ってはいますし実際に迷った時にやると決めたことの方が今までの人生でもよい方向に進んでいるように思いますので、いろいろと不安や心配は尽きませんがアホみたいに前だけ見て進んで行けたら嬉しいなと考えています。

ところで、迷うのであればやってしまえ、というのは成功者の言葉としてよく聞きますが、どうなんでしょうね。何かをやったときに致命的な失敗をしない限りは何かしら得るものがあると思うし、致命的な失敗って人生でそうそうあるものではないし、一方で何もしなかったときには何も得るものがないのは物の道理であるから、体が一つしかなくて時間は一方向にしか進まない以上、やった場合とやらなかった場合を比較することって原理的に不可能であって、それを迷うのが不毛だというのは理解できるにしてもそれはやった方がいいと結論付けるのは論理的に飛躍し過ぎな感じもします。精神論として、やった後にやらなかった方がよかったと思う場合と、やらなかった後にやった方がよかったと思う場合を比較すれば、前者の方は事態を好転させるために様々な方策が取れるけれど、後者はやらない以上改修できないという点で前者の方がよりよい選択ということは言えると思うから、結局迷うくらいならやってしまえというアドバイスは意味のあることなのだと納得しました。

そんなわけで2012年は特に大きな変化もなくまさに恙無く人生を歩むことができました。もちろんすべてに納得がいく内容だったわけではないですが、一年を通して健康に大きな失敗もなく働くことができたことこそが無上の幸せであると思いこむことにします。2013年は多少の変化を出していくことになると思いますが、身体と精神の健康を第一義的な目標として恙無く日々を過ごしていければそれでよいだろうと思うのです。

一年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

36歳になりました

今の時代、平均的な人生とか、典型的な人生とか、そんなものはないのは周りを見ていればよくわかるんだけれど、それでも、取り立てて貧乏な家に生まれたわけでもなく、大きく成功したことはないまでも何か大きな失敗をしたつもりもなく、壊滅的にブサイクでもないつもりだし、間違いなくデブでもハゲでもない、そんな風に無難に無難に生きてきたはずなのに、ふと気付いてみると、毎日同じ時間に仕事に向かい、多少のブレはありながらも大体同じくらいの時間に帰宅して、特に献立を立ててはいないけれどカップラーメンやレトルトカレーやスーパーの半額になった弁当や冷凍ピラフなんかをローテーションで回す夕食を済ませて、本を読むかゲームをするかネットを巡回するかDVDでアニメやドラマを見るか、そんなことをしながら眠くなるまでやり過ごして、眠くなったら寝て、で、また同じ時間に朝起きて、そんな毎日をグルグルグルグル過ごしているうちに、十二支を三周して気が付いたら36歳になっていてビックリしている今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか?なんてベタな言い回しでも何だか一人で部屋に籠って書いてると面白くなってきてニヤニヤしている自分が、すでに完全なアラフォーになっていたなんてどんな悪い冗談だよと思いつつ、せっかくだからいい酒でも飲もうと思って、冷蔵庫から純米大吟醸を引っ張り出してきたら手を滑らせて、今泣きながら床掃除をしています。

死にたい。

それでもブログを書く理由

私はいわゆる士業をしています。先月までは別のところでブログを書いていました。いわゆる士業と呼ばれるほとんどは国家試験を受ける必要があります。その試験の感想とか、後進の受験生へのアドバイスとか、あとは実務的な内容で気付いたこととか、そんな諸々を書いていました。お陰さまでそれなりのアクセスをいただいていたので、大変やりがいを持って運営していたのです。

ある日、とある記事に迂闊なことを書いてしまったせいで、その士業を束ねる業界団体からお叱りを受けることになりました。傍論で触れた内容に同業者の営業に支障を与えるような内容が含まれていたのです。相手の方は業界団体へクレームを入れ、勤務先の所長のところへお偉いさまが乗り込んできました。記事は即刻削除してお詫び記事を掲載しました。相手方へ速達で詫び状を送付しました。(それに対する返答は一切ありませんでした。)

結果としてそのブログは閉鎖することにしました。閉鎖するように迫られたわけではないですが、そもそも業界的な内容を書くことに大きいリスクがあることを強く認識したこと、そして何より自分が書いた内容によって他の無関係な人に迷惑が掛かるような業界慣行があるということを初めて知ったからでした。

ブログを書くことを止めるということも一つの選択肢でした。でも結局このように新しいブログを開設することに決めました。それは自分にとってブログを書く行為がすでに自己実現のために欠かせない行為となっていたことに気付いたからです。

私たちは普段、プライベートでも仕事上でも、ネット上の情報によって大変効率的に物事を進めることができています。商業的に生産されるコンテンツも多いですが、最近では、掲示板や口コミサイトもしくはTwitterやFacebookのようなソーシャルなサービスを通じた一般人の率直な意見や感想が、情報としての重要度を益々高めています。

自分がこれらの情報によって受けている恩恵に対して報いる方法を考えますと、最も直接的で効果的なことは、自らも情報を発信することです。ほとんどの人にとってどうでもよさそうな内容であっても特定の誰かにとっては事態を打開する強力な情報になるかもしれません。自分の身に起きたものすごくレアな体験と思っていても、世の中は広くそして想像以上に人間はたくさんいます。自分と同じ事態に遭遇して困っている人がどこかにいるかもしれません。私はネットが今以上に有用な情報源となるように少しでも貢献できたら、普段自分が受けているネットからの恩恵に対して少しでも報いることができるのではないかと考えているのです。

最初にブログを開設したときには極めて個人的なメモ書きとして始めました。他の人には大して面白くもないだろうし、そもそもこのブログの存在すら誰も知らないのです。思うことを思うままに書き散らしていました。ところが徐々に検索エンジン経由でのアクセスが入っていることに気付きました。どこの誰だかわからないけれど、どこかの誰かがこの文章を読んでいるということを意識するようになりました。すると、それなりの責任感が芽生えてきました。それまでは目にしたニュースに対して脊髄反射的に思うことを書き残していたものが、周辺の情報も確認して論理的に何らかの結論を導き出せるように踏み込んで考えるようになりました。昔から本を読むのは習慣として持っていたのですが、ブログに書評を書くようになってからは、より一文一文に集中できるようになった気がします。それまでは何となくインプットしてほったらかしになっていたことが、ブログを通じてアウトプットすることによって深く自分の中に消化されて行くことを実感できました。

私は絵も描けなければ音楽の素養もありません。しかし子供のころから作文だけは高く評価してもらえていたし、社会に出てからはほぼ一貫して文書を多く書く仕事をしています。私にとって何かを表現するための手段は、文章を書くことしかあり得ないのです。

冒頭でいわゆる士業で食っていることを書きました。でも、このブログでは職業的なことは書かないつもりです。書き続けていく中で、例えば読む本の選択とか、反応するニュースのカテゴリから想像がつくようになるかもしれません。しかしそれは、あくまで私の属性の一つとして捉えていただきたいと思っています。少なくとも社会に出てから隠居するまでの40年あまりは人生の3分の1を仕事に費やすことになります。仕事が陰に陽に自分に与えている影響は考える以上に大きいはずなのです。とにかく現時点では、このブログは、あくまで私個人の興味や思考を表現するための場であるということは明確にしておきたいと思います。

今日のところはこの辺で。ご静聴ありがとうございました。